現在の最善

 かつて「燃焼」を「燃素による化学反応」と説明する説がありました。もちろん現在は酸素との化合が「正解」で「燃素」は「不正解」です。しかし、酸素の存在を知らない人が最善を尽くして「燃焼」を説明しようとしたら、「燃素」に走るのも責められません。むしろ、そういったことを軽々しく軽蔑する人は、現在最善を尽くして世界を説明している科学に“間違い”があったらやっぱり軽蔑するんでしょうか。私は「最善」の方に注目したいのですが。

【ただいま読書中】『ディファレンス・エンジン(上)』ウィリアム・ギブスンブルース・スターリング 著、 黒丸尚 訳、 角川文庫、1993年、621円(税別)

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 1855年のロンドン。ただし“こちら”のロンドンの産業革命はちょっと変な雰囲気です。もちろん工場では蒸気機関の「エンジン」が大活躍しているのですが、道には蒸気自動車が馬車に混じって行き交い、なんと蒸気コンピューターが市民全員を番号で管理しています。テキサス共和国から亡命してきた元大統領は革命のために講演会をしていますが、そこで活躍するのはキノトロープ(蒸気映像)です。競馬場では蒸気自動車がレースをやっていて、そこにふらりと登場するのが“機関(エンジン)の女王”レイディ・エイダ。いや、本当にふらふらしてここに心あらずの様子で、自分が誘拐されかけているのにも気がつかない様子なのです。それを(意識せずに)救ったのがエドワード・マロリー。新大陸で雷竜の化石を発掘する、という“ビッグニュース”と共にロンドンに戻ったばかりですが、そこでは、進化論に関して「激変説」と「斉一説」の大議論が展開中です。

 いやもう、詳しい説明抜きにどんどん話が進行していきます。その背景に「この世界」がちらちらと描写され、そこからわかるのは「バベッジのエンジン」が大成功をしていて、それをベースに「産業革命」がどんどん進んでいる、ということ。つまり「あり得たかもしれない産業革命とその後の世界」に関する思索実験が本書では実行されているのです。実際に私たちが知っている「産業革命」は「唯一この道しかない」歴史のコースだったわけではないでしょう。ほんのちょっと“何か”があったら(あるいはなかったら)私たちは今とはまったく違う世界に生きていたかもしれないのですから。

 エンジン(蒸気コンピュータ)への入力はパンチカードです。たった一つの穴の開け間違いで人の運命が大きく変わることもあるので、その入力現場はまるで修道院の書写室のような雰囲気になってしまっています。そう、この世界では「エンジン」が「神」の座についていると言えそうです。するとバベッジ大司教?それとも……キリスト?

 数年前にこの本は読んでいますが、その時とは微妙に着目する点が違っているのが興味深い。私自身まだ少しは成長しているのかもしれません。

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